続・私の不登校物語 -学習意欲編-

 

 

 さて,「私の不登校物語」では主に不登校に至ってそこから学校に復帰するまでの軌跡を描きました.キーワードは「偶然性」で,不登校になるのも偶然なら,学校復帰するのも偶然が重なっての結果なのだということです.と言うと,自分という存在は何と無力なのだろうと思ってしまいますが,よくよく考えてみると,偶然はすべて「出会い」によるもので,出会った瞬間にはそれほど意味のある出会いという実感はなかったものがほとんどです.良い意味での偶然に恵まれる方法があるとしたら,おそらく,一見些細な出会いであっても,それを大事にして,意味づけしていくことなのだろうと思います.
 そこで,今回は,私が不登校を経験して学校復帰し教育心理学専攻の学生に至っている過程を「学習意欲」の面から捉え直してみようと思います.人が何かを学ぶとき,そこには何らかの理由=動機があるわけですが,普段はそれほど意識することがないかもしれません.また,学習意欲のある人は努力家で,学習していない人は怠け者だという一般的な見方があるようにも思います.しかし,「やる気」というものにも種類があって,どんなやる気でも学習しさえすればそれでよいということにはならないでしょう.学習する本人がものすごく疲れてしまうやる気もあれば,学習すればするほど元気になるやる気もありますし,自分の楽しみや利益にのみ固執したやる気もあれば,自分を含む社会の様子について考えるところから出てくるやる気もあるでしょう.不登校前から現在までの私自身の学習意欲を振り返ってみると,内容的にかなりの変遷があることに気づきました.その軌跡をここで紹介してみようと思います.



その1 幼少期から不登校まで

 私が幼稚園の時,いとこが東大に合格して,勉強ができることは立派なことであるという価値観を持つようになりました.「東大か防衛大に行くんだぞ」と言われてその気になって,「伊田家は代々優秀なのだ」と言われれば信じ込んでプライドを持ち,自分は他と違うんだ,自分が一番なのだ!と根拠のない自信が形成されてしまったのです.実際には,学校の授業以外で勉強することはなく,小学校での成績は中位だったと思われます.
 この時の学習動機は,他人から(特に教師などの権威者から)「優秀である」と認めてもらうことにありました.とにかく自分が優秀であることを常に確認できないと気が済まないわけで,テストで95点か100点を取れば「一安心」,80点なら「ぎりぎり」,70点なら「がっくり」です.しかし,テストに向けて勉強したかと言えば「NO!」で,テストの点数がクラスの全員に公表されるわけでもないので,普段の生活態度が「まじめ」であれば,それなりに優等生らしく見えるわけです.私は,優等生としての外見を演じることで満足していたので,学習という行動にこだわっていなかったのです.小学校高学年になって,テストの点数が若干低く(65点前後)なってきていましたので,早かれ遅かれ,この根拠のないプライドに基づく学習動機は崩壊の運命にあったに違いありません.そもそも学習内容には目が行かず,興味を持てないでいましたから,こんな我慢ばかりの学習はつらくてしょうがなかったのです.「将来のために今を犠牲にする学習」と表現したいと思います. 


その2 学校復帰直後

  約2年間の不登校から学校に復帰するとき,学業面では一切のプライドを捨てました.0点でもいいという覚悟をして,中学1年の学年末試験の初日(平成元年2月21日)を学校復帰日に選びました.結果は,国語49点,社会42点,数学23点,理科42点,英語8点で,授業を一度も受けていないわりには良い出来だと思いました.ならば「やればできるかもしれない」と元気になってしまい,しかも「0点で元々」という開き直りがありますから,好きなようにやってみようという精神的なゆとりと意欲が生まれたのです.
 中学2年になってクラス替えがあり,転勤してきたばかりの先生が担任になりました.ところが,その先生が高血圧で入院してしまい,副担任の先生が代わりにホームルーム等も担当するようになりました.その副担任のF先生は,中学1年の3学期,学校復帰直後,風邪で具合が悪く,保健室の先生が不在のため,職員室で休ませてもらっていたときに,偶然,向かいの席でカメラの手入れをしていて,私が「すごいカメラですね」と声を掛けたら「写真部創ったら入るか?」と言ってくれた先生です.担当教科は理科で,学校復帰間もない私にも好意的に接してくれました.
 科学部に入ったこと,担任代行の先生が理科だったことから,理科だけは一生懸命やろうという気になってきました.そこで,教科書だけではなくて,教科書ガイドや教科書準拠の問題集,さらには理科用語集まで買ってきて,休み時間や家に帰ってから念入りに使いこなしました.自分の意思で勉強することが楽しいと感じた瞬間です.今までのプライドに縛られず,将来どう進むかも自分次第という状況になって,学習内容そのものに興味を持つことができるようになったわけです.
 学校復帰して最初の中間テスト,理科は90点でした.初めて本気で勉強した結果ですから,これはうれしいわけです.不登校前なら「一安心」の点数ですが,今度は「いやー,よくやったなー,我ながらよくやった!」という感じです.他の教科は,国語84点,社会48点,数学32点,英語12点でした.悪い点数の教科があっても,0点ではありませんから,ノー・プロブレム.
 2学期になると,入院していた担任の先生が戻ってきました.社会科の担当で,人間的に信頼できるおだやかな先生です.今度は社会科も本気でやってみようと思い,問題集を何冊も買い込んでやりこなしました.その結果,2学期中間テストの社会は98点.1学期末と比べて50点UPです.
 こんな調子で,内容に興味を持ちつつ勉強し,テストでの高得点を楽しむようになってきます.苦手教科を一つずつ克服していくのは快感です.でも,それができたのは,0点でもいいという余裕があったからです.結果を気にせず勉強に打ち込めるのですから,内容をしっかり理解できます.「将来のために今を犠牲にする学習」から「今を楽しむ学習」へと変ったことになります.でも・・・. 


その3 中学2年後半~高校3年夏

  しかし,結局は点数を取ることが究極的な目的になっていて,興味の持てない部分まで無理に暗記してしまうということもあったのです.本当に楽しいと思えるところが多かったのは救いですが,多少無理をすることができたのには大きな理由がありました.それは,教師になりたいと思ったからです.不登校を経験して,一切のプライドを捨てて学校に復帰し,半年足らずで高校進学も夢ではない成績になってきたとなると,将来のことを前向きに考えてみたくなったのです.不登校経験を持つ教師なんてカッコイイなと思ってしまったわけです.
 ここで,学習動機の大転換があったことになります.自分の経験を将来に生かそうと考え,その将来の目的を実現するために学習しようということですから,「将来のために今を犠牲にする学習」という要素もありますが,そこには「過去を生かす学習」としての側面も入っているわけです.つまり,将来の目的が,親や教師から与えられたものではなく,過去の経験から自力で導き出したものになっているのです.「今を犠牲」にしても「自分を犠牲」にしてはいない点で大きく進歩したと言えるでしょう.
 でも,やはり「今を犠牲にする学習」は長続きしないもので,高校3年の夏に,自分のやっている勉強にはどんな意味があるのだろうか,将来教師になるために必要とは言っても結局は大学受験に必要なだけで,教師になってからの教育活動に直接必要とは思えない,などと思い悩むようになります.過去の経験を生かす将来の目標はあるのに,過去と将来をつなぐ「現在」が欠けていたのです.受験を意識してしまうと,過去を生かすための現在の学習ということをすぐに忘れてしまうのです.


その4 高校3年後半・浪人時代

  不登校経験を生かすために教師になりたい,教師になるためには教育学部に入らなければならない,教育学部に合格するためには受験科目を勉強しなければならない,この三段論法は結局のところ,「不登校経験を生かす」という最初の目的と「受験科目を勉強する」という最終的な手段を切り離してしまうのです.受験科目という枠組みで勉強する限り,その勉強は不登校を生かす活動にはなりません.
 そこで発想を転換してみます.不登校経験を生かすために教師になりたい,教師になるためには教育学部に入らなければならない,ここまでは良いでしょう.問題は受験科目の意味づけなのです.「受験に必要だからやるしかない」では能がないですし,我慢するような勉強になりますから長続きが期待できません.ならば,なぜ受験科目になっているのかを考えてみようと思いました.なぜ教育学部の入試に国語・社会・数学・理科・英語すべてが必須となっているのか.国語は専門の論文を読みこなす力で,社会は教育を社会レベルの問題として考える基礎になる,数学は心理学の研究で統計的手法を使うから重要,理科は心理学の基礎としての生物学的知識になる,英語はもちろん専門の論文を原著で読むときに必要,なるほど,5教科すべてが必要であるとは言えるが,それぞれの教科について見れば,重要な部分とそうでない部分があることがわかったのです.国語なら,古文・漢文よりも現代文を重視,社会は政治・経済,理科は生物を選択,英語も評論文中心に,という具合に,自分なりの重みづけができました.
 これで「受験に必要だから」ではなく「大学に入ってからの学習に必要だから」と読み替えたことになります.過去の経験を生かす学習に直結するのなら「今を犠牲」にするという感覚は大幅に軽減されるのです.これをやるためには,大学で何を学ぶか,その学問がどういうものかをある程度知っておく必要があります.できれば,一般向けに書かれたものか入門書を眺めて見るとよいのですが,受験生にそういうことをする精神的余裕はなかなかないものですし,高校の進路指導でもそこまで手が回っていないのが実状です.私の場合,偶然にも予備校の先生が高校時代にお世話になっていた方で,教育学の博士号を取得されたばかりで,私の目的意識にぴったりの良書を紹介していただけました.その本はまさに学習動機について書かれていて,今現在の研究テーマに直結しているものです.
 


その5 大学~大学院(現在)

  めでたく心理学専攻の学生になりました.いよいよ「過去を生かす」学習に取り組むことになります.不登校をテーマにした授業もあります.学習動機について語られる講義もあります.ついに,過去を生かし将来につながる現在の学習ができるのです.
 しかし,過去を生かす現在の学習は意外に難しいものでした.と言うのも,授業内容や教科書をそのまま読んでいても,自分の問題意識にかする程度なのです.強引に解釈すればそれなりに読めるのですが,やはり核心に迫っているという気にはなれませんでした.心理学ってこの程度のものだったのか・・・と諦めかけたのですが,よく考えてみれば,心理学に限らず,学問に完成はありません.核心に迫っていないと思うなら,核心に迫る研究を自分ですればいいだけの話です.本当の学習とは,自分で真実を発見することだったんですね.既存の知識を学ぶことは大切ですが,それらの成果をすべて積み上げても解決できない問題はいくらでもあるわけです.
 また,自分で研究するにしても,それまでの成果を記した論文に目を通すことが必要です.ところが,自分の問題意識の核心に迫る研究論文に出会うのもまた大変なことなのです.初学者が膨大な研究論文の中から自分に必要なものを見つけ出すのは宝くじに当たるのと同じくらい大変なことかもしれません.私の場合,自分の研究の方向性を定めるのに役立つ文献を見つけるのに大学入学から丸2年かかりました.それも,ある教官の研究室で雑談をして,帰り際,机の上に無造作に置かれていた学術雑誌の一つを手にしてパラパラめくっていて偶然目に入ったのです.「先生,コピーしていいですか!」「どうぞ(ニタッ)」・・・研究は論文との出会いに恵まれてこそ進むものだと実感しました.


現時点でのまとめ

 過去を生かす学習の利点は,自分の経験が学習動機の源泉ですから,自分を犠牲にする危険性が少ないこと,将来の生き方の確立に寄与する可能性が高いことが挙げられます.さらに,経験に照らし合わせることで既存理論の欠陥を発見したり,これまでの成果で解決できない問題を提起したりすることが可能になります.しかも,経験はこの時代の流れの中で得られたものですから,その経験から導き出される問題意識は,同時代を生きる他の人々と共有できる可能性が高いに違いありません.そして,経験は自分固有のものですから,それに基づく研究はオリジナリティーに富み,個性的なものになるでしょう.加えて,問題意識が明確になりますから,必要な文献に出会ったとき,それが必要であると判断でき,貴重な偶然的出会いを逃しません.そういう敏感さをも与えてくれるのが「過去を生かす」という学習動機だと思います.こんなことは教育心理学の教科書のどこにも書いてありません.運がよければ,何十年後かの教科書に載っているかもしれませんね.