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 こんにちは。いだかつのりです。約2年間の不登校&ひきこもりを経て,中学1年の年度末に学校復帰して,2019年2月で復帰30周年(笑)を迎えました。高校3年間皆勤(ただし卒業後1年間浪人),大学(4年)・大学院(5年半)で教育心理学・発達心理学を専攻。松阪大学・三重中京大学専任講師(3年),北海道教育大学釧路校准教授(6年半),静岡大学大学院教育学研究科教育実践高度化専攻(教職大学院)生徒指導支援領域の准教授(5年)を経て,2019年4月に立命館大学大学院教職研究科(教職大学院)教授として着任いたしました。研究テーマは「学習意欲(動機づけ)と自己形成・アイデンティティ形成の関係・・・アイデンティティ・ベースト・モチベーション」「児童期から青年期への移行」「仮想的有能感とindustry=勤勉性」です。この数年の関心事は,「いじめ」「不登校」「適応と不適応」「インクルーシブ教育システム,合理的配慮,ユニバーサルデザイン」「社会に開かれた教育課程」「主体的・対話的で深い学び」「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)」「高大接続改革・・・高校教育と高等教育」「アタッチメント(愛着)」「貧困・格差問題」「ジェンダー」「平和と民主主義」などです。

 このページは以下の3つのパートから構成されています。(現在,再構成中です)

  ■不登校ネタを扱う「いだかつのり資料室」=小5~中1にかけての不登校経験について
  ■教育・研究活動を扱う「伊田勝憲研究室」=大学教員・研究者としての生活(研究室のページにリンク)
  ■いだかつのり+伊田勝憲=「いだのびの今日この頃」・・・のび太に似てる(?)私の日常
 ということで,どこからでもお気軽にお楽しみください。

 
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「こころ」から考えていること 伊田勝憲

 1997年3月(大学2年時)に青森県こころの教育相談センターの文集原稿として執筆


 

 

 

 「こころ」に来て、もうすぐ1年が経ちます。大学で心理学と教育学を学び、授業のない日にセンターの指導員として子どもたちと接していますが、そんな私も、十年前は、指導を受ける立場である「登校拒否児」でした。当時は、まだ「こころ」のような、毎日通って一日を過ごすという場所はなく、市の教育研究所で個別指導を受けたり、区の児童相談員とお話したりする以外は、ほとんどの時間を家で過ごしました。

 ある日、不登校になる以前に知り合った他の学校の鉄道ファンの仲間から、列車の写真を撮りに行こうと誘いの電話がきました。当時、JR札幌駅が高架化され新しく開業し、新型の電車が走り始めたこともあって、地元の鉄道ファンが活発に動いていたのです。仲間の誘いを受けて、私も毎週日曜日に札幌駅へ写真を撮りに行くようになりました。それでも、自分が学校を休んでいることに罪悪感のような後ろめたさがあったので、同級生に見つからないように朝5時半頃、家を出発して、すっかり暗くなってから帰るという調子でした。親が朝4時半頃に起きて朝食の準備をし、5時に私を起こしてくれたことは今思えば、いろいろな意味で大変なことだったでしょう。学校に行かずに、駅に遊びに行くことを認めるのは勇気のいる決断だったはずです。

 こうして外に出るようになって徐々に気持ちが変わってきました。それまで、学校では「何事にも一生懸命に頑張る優等生」を演じて疲れていたのですが、そのように演じる必要なんかないと思えるようになってきたのです。地下街を歩いて、いわゆる「ホームレス」の人たちをたくさん見かけましたが、いざとなれば、あのような生き方だってあるんだから、無理して優等生にならなくても何とかなりそうだという楽観的な見方ができるようになったのです。これは私にとってとても大きな変化でした。

 中学1年の学年末テストの日から、約2年ぶりに学校へ完全復帰することになりました。もちろん、テスト勉強をほとんどしなかったので、さっぱり点になりませんでしたが、ずっと学校に来ていたものの勉強ができないという人と「2年生になったら頑張ろうね」と約束した覚えがあります。そして2年生になってから余計なプライドも捨てた私はただただ、気の向くままに、勉強を始めました。0点でもかまわないという妙な余裕が、本当の意味での「学び」につながったのではないかと思うのです。

 長々と私の体験記を読まされ、うんざりしていらっしゃるかもしれませんが、私にとって「不登校」は、ぜひ人に伝えたい経験であり、かけがえのない貴重なものなのです。私は機会があるたびに、自分が不登校経験者であることを人に話します。また、日々の学業では、自分が不登校経験者であるという自覚が意欲の源泉になっています。

 なぜ、一般的にはマイナスのものとして受け止められてきた「不登校」に対して、私は誇りまでもっているのでしょうか。それは、今、私がアイデンティティを確立して自分らしく生きている(と思える)のは、不登校経験によるものだと確信しているからです。もちろん、アイデンティティの形成には、学校復帰後の経験も寄与しており、現在も発展し続けているわけですが、やはり出発点は、あの「不登校」に違いないのです。

 私が学校に復帰した時、周囲の人たちは、きっと「これで学校に行っていた頃に戻ったんだ」と思って喜んでいたかもしれません。しかし、それは全くの誤解としか言いようがありません。私は、決して元の自分に戻ったのではなく、ひとまわりもふたまわりも大きくなって学校に行くことができるようになったのです。つまり、「不登校」の前と後では、私の学校に対する見方や考え方、そして学校に行くということの意味が180度転換しているのです。私にとって学校は、自分を抑えつけ我慢し耐える場所から、友達との生活を楽しむ場所へ、さらに学ぶことにより自分を表現する場所へと変わったのです。

 本来、学習とは、この世の中のあらゆる事象について理解し、また疑問に思ったことや感じたことを表現するという二つの活動の相互作用によって進めるものだと私は考えています。しかしながら、多くの子どもたちは、教科書や試験に出る内容を理解することが学習だと思い込んでしまっているような気がします。また、疑問や興味、関心も学習内容を決定する根拠としてではなく、すでに決定されている学習内容の理解を促進する補助的な道具くらいにしか考えられていないようです。これでは、学習が嫌いになることはもちろん、生涯学習の基礎として重要な「問題を発見する」ということができなくなってしまいます。さらに深刻なのは、自分が学習内容を理解できればそれでよいと考えることによって、共同して学ぶということができなくなり、結果として、真の意味での仲間を作ることができなくなることです。このことは、いじめや不登校といった学校における諸問題の大きな背景になっているのではないかと考えられます。また、仮にそのような問題が発生しないとしても、本当の「学び」ができていないことは、世界を視野に入れた人間として生きていく基盤が欠けていることでもあり、学校に行っているというだけでは安心できないという大変な事態が起きていることを意味します。事実、一般には学習の成功者と思われている大学生の中に、真の「学び」ができていないために問題を抱えてしまっている人や、自分が問題を抱えていることにすら気づかないという重症の人がたくさんいるのです。

 自分の不登校経験から出発した関心は、教育の根幹である「学びとは何か」という本質的な問いにまでひろがっています。子どもたちが真の「学び」を実現するためには、まず大人自身が真の学びを実践しているという環境が不可欠です。果たして今日、どれだけの大人が「学んで」いるのでしょうか。「こころ」に来ている子どもたちが真に「学ぶ」人間として、また、真の「学び」を広める先進的な人間として巣立っていくために、そして、真の「学び」が一般の人々のものになるように、私は真に「学ぶ」ことができる環境作りの研究を進めていきたいと考えています。

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