私の不登校物語

 

インターネット初公開だぴょん!

みなさん、ようこそいらっしゃいました。ここは、いだかつのりの不登校物語のページです。そう、私の不登校物語なのです。もしかしたら、テレビドラマや映画よりも「ドラマ」があるのかもしれませんが、あまり期待しないで見てください。一応、豪華イラスト入りです(?)。どうぞごゆっくり。

(1)幼稚園時代の巻


いだかつのりが不登校だったのは、小学校5年生の(昭和62年)3月下旬から中学校1年の(平成元年)2月中旬までですが、その原因というか理由・背景を考えると、どうも幼稚園時代までさかのぼることになりそうなのです。というのも、私の価値観を形成する上で非常に重要な出来事があったのです。それは・・・

  「いとこが東大に入ってしまった」

ことなのです。どうも余裕で入ったみたいで、現役で東大文1に受かったんだけど、それは親の希望だったらしく、本人は納得できなくて、1浪して理類に入り直したと私は聞いています。もちろん、親戚は大喜びしていました。私は、祖母の家が近かったので、両親に連れられて毎日のように遊びに行っていました。そこで、おばに話されることは、「かつのりも東大に行くんだぞ」「将来は偉くなるんだぞ」「公務員がいい」「防衛大もいいぞ」といったことでした。ここで防衛大が出てくるのは、父がかつて自衛官だったからだと思います。ちなみに、父も母も高卒です。
 一人っ子で単純な私は「よし、ぼくは東大か防衛大に行って、将来偉くなるんだ」って考えて、その気になっていました。とは言っても、勉強なんか小学校に入ってから始めればいいと思っていましたし、両親も親戚も、私を塾に通わせようなどとはしませんでした。そのいとこも塾には行かずに勉強していたからでしょう。ちなみに、そのいとこの両親は高校の先生でした。
 こうして私は、意識だけ「東大、防衛大、エリート」を目指し、行動は大人の言うことをよく聞く真面目な子を演じ、勉強は特にしないという幼児期を過ごしました。大事なことは、その行動というか態度が「真面目」だということでして、東大や防衛大に入るためには学力が必要だろうとは思っていたのだけれど、それ以前に「真面目」であることが大切なのだと考えていました。つまり、要領が悪いというか、不器用だったんですね。これが後に問題となってきます(今でも不器用なままですが何とかやっています)。

 

 

 

(2)「黄金時代」の巻


 いよいよ小学校入学であります。一人っ子はまだ少ない時代でしたから、周りに比べると要領が悪いのは明らかでした。何をやっても損をするという感じでしたが、負けん気はありましたので、真面目に学校に行っていました。
 小学校3年生になるときにクラス替えがあって、自分ではよくわからないのですが、真面目な態度が認められてか、クラスでも班長や係長などの役職に推薦されたりして、小学校4年生の時には学級代表委員にまでなってしまいました。まさに「黄金時代」。おまけに、この頃は女の子にも結構モテていたような気がします。
 実際には、そうした役職は名ばかりで、あまり実質的な仕事がないので、ボロが出ずに済んでいたのですが、プライドだけは大きくなってきて、幼稚園時代からの「東大、防衛大、エリート」意識も強くなってきていますから、態度は横柄になってきていたと思います。ちなみに、学業成績は中位くらいだったでしょうから、東大なんておぼつかない学力だったわけです。あくまで、意識だけ「東大」だったのです。
 4年生も終わりに近づくと、どうも態度が横柄なことに対して、周囲からの信用を一気になくしていきます。おまけに、この頃から第二次性徴が始まっていて、私の関心もHな方に向いていくわけです。授業中も女の子の足ばかり眺めていたような気がします。この辺から、下り坂を転げ落ちていくのです。5年生になると、クラス替えがあり、ついに学級代表委員の選挙にも落選します。同じ班になった同級生からは、結構冷たくされて、半ば「いじめ」られ状態でした。こんなところから早く抜け出したい!そこに、幸か不幸か、引越しの話が・・・。

 

 

 

(3)転校、そして・・・の巻


 引越し・・・転校。それまで住んでいた借家が古くなり取り壊されるということで、これを機会に市営住宅団地へ引っ越すことになりました。その団地には、例のおばも数年前に引っ越して住んでいました。
 この転校を機会に、また「黄金時代」を復活させようというのが私のねらいでした。小学校5年生の(昭和61年)9月でした。ところが、転校した先が、北海道で3校しかない「体力づくりの優良校」として表彰されていた学校で、毎朝、学校の横にある公園を2周走り、毎週土曜日の4時間目には「虹の時間」と称して、マラソン大会や縄跳び検定大会などが催されました。廊下には縄跳びの段級位ごとに名札がかかり、全校一丸となって取り組んでいる様子でした。実は、私は体育が大変苦手で、以後、屈辱的な思いをすることになりました。
 それだけならまだしも、私の学年は特に合唱に力を入れていて、二次性徴で声変わりの時期にあった私は、自分の体についての知識がなく、なぜ歌えないのかがわかりませんでした。何しろ、9歳で二次性徴が始まってしまっては、学校の性教育も間に合わなかったわけです(今の性教育はかなり改善されているようですね。みんな成長が早くなっているし)。おかげで、同級生や先生にも、バカにされたり、不真面目だから歌わないのだと決め付けられたりして、大変ショックでした。そこで、自己主張できれば良かったのでしょうけれど、私にはそんな力は当時ありませんでした。
 そして、ついに、5年生もあと1週間というところで、風邪で欠席したのをきっかけに、そのまま修了式前日まで続けて休んでしまいました。これが不登校の始まりです。運動が苦手な自分でも、何とかして先生や同級生に認められようと一生懸命だったので、一度休んでしまうと、「きっと宿題が出ているのだろう」「勉強遅れた分を取り戻してからでないと学校に行けない」「自分のいない間に何か決められていて、明日出ていったら恥をかくのではないか」など、かなり神経質になり、結果として学校に行けなくなったわけです。自分は真面目な人間だ、そのことを確認できない学校に行くことはできなかったのです。

 

 

 

 

(4)不登校・・・不本意!!!の巻


 小学校6年生になると、週に1~2日くらいしか登校できなくなりました。逆に言えば、完全に不登校というわけではなかったということにもなります。それでも、年間欠席日数は余裕で100日を超えていますから、文部省基準の50日もクリア(?)しており、登校拒否児童としてカウントされていたことと思います。
 時々学校に行っても、やはり自分はみじめな思いをするだけで、学級代表委員はおろか、班長にすらなれない状態ですから、何をやっても自分のプライドが傷ついていくだけです。勉強だってどんどんわからなくなっていきます。もともと成績は中位でしたから、あっという間に下位になるのは当然のことです。もちろん、欠席して家にいる時には全く勉強していません。勉強は好きでなかったですし、二次性徴以降(以前も)はHなことや趣味の鉄道のことばかり考えていました。一番の楽しみは、内容は何であれ、空想することです。この辺は一人っ子丸出しですね。
 夏休みや冬休みは、札幌市交通局が主催する「こども交通講座」なんかに行って、他校生に趣味の仲間(これが後に・・・)を作っていました。そこでもらってくる地下鉄のイラスト入り定規を学校に持っていって自慢するのがわずかな楽しみだったと記憶しています。学校内に友達がいなかったわけではなく、趣味の共通している仲間が数人いましたから、自慢相手には困りませんでした。
 小学校はそのまま卒業し、中学校に行きます。ここでも、私は再起を誓い、再び「黄金時代」を築こうと努力します。これが間違いなんですね。いきなり学級代表委員に立候補して、他に誰もいなかったので、すんなりなってしまいました。さらに、代表委員の中でも、学年の書記を引き受けてしまいました。4月は何とか欠席1日だけで乗り切ったのですが、学年集会の原案を作るはめになり、それがうまくできず、顧問の先生に見せるのも恥ずかしくなったので、5月の連休明けから不登校になりました。ここからは終業式や始業式も欠席です。
 それでも、プライドは捨てられず、自分が実力を発揮できないのは周囲が自分を認めないからだと考えるようになり、不本意感が次第に増大していきました。到底、自殺などは考えることもなく、自殺するくらいなら自分以外の同級生と教師を全員殺した方がマシだと考えていました。もちろん、そんなことは頭の中で考えて、現実逃避するだけで、実際には口で文句を言うことすらできませんでした。実に情けない状態です。とにかく、空想だけ。全日本登校拒否連盟を作って、そこの理事長になって、自分を認めなかった奴等をぶっつぶそうなどと考えていたこともありました。それに、周囲は自分よりも要領がよく、くそ真面目な私から見れば「ずるい」と思って腹の立つこともあったので、各学校に警察官を配置して、徹底的に不正は取り締まるべきだなどとも考えていました。警察委員などというのがあったら、自分がなるのになどとも空想してました(笑)。
 いわゆる「空元気」だけはあって、家庭内暴力をしていました。よく親の髪の毛をつかんで、床にねじ伏せて、足で踏みつけながら「なんとかしろー、オマエ(親のこと)が悪い。うちが金持ちだったらこんなことにはならなかったんだ!」「何で大学出てないんだ!バカヤロー!!それで息子が大学など行けるか!!」など罵声を浴びせ、両親を苦しめておりました。つまりは他力本願だったわけで、自分では何もできない存在だったのです。しかも、そのことに自分が気づいていなかったんです。だから、プライドを捨てられないんです。自分が間違っているなんて考えられなかったのですが、それは、私が傲慢だったからということではなく、周囲に謙虚な大人がいなく、自分を見つめ直すということを身をもって教わる機会がなかったからだろうと今は考えています。その証拠は、次のお話で。

 

 

 

 

 

(5)「偶然」が重なった!の巻


 こうして不登校&家庭内暴力が続くのですが、ある日、他校生の鉄道趣味仲間から電話がありました。ちょうどJR札幌駅が新しくなって(昭和63年11月3日開業)、新しい電車が走るなど、鉄道ファンには魅力的な時期でした。そこで、一緒に駅へ写真を撮りに行こうと誘われたわけです。相手は一つ年下の小学校6年生だったのですが、他校生ですから、私が不登校だということなど全然知らないわけです。さあ、困った。「不登校だから外に出られない」などと言うわけにもいかず(ここでもプライドが・・・)、結局行くことになりました。
 日曜日といっても、同級生に見つかるとまずいので、早朝5時半に家を出発し、始発電車で札幌駅まで行くことにしました(私の住む団地は郊外だったので、市の中心部までは地下鉄で20分かかる)。この辺から、母親の態度が変わってきて、それまで学校のことでうるさかったのが、朝の4時に起きて朝食の準備をしてくれるなど、私の好きにやらせてみようという姿勢が見られるようになってきました。当時の私は「当たり前」だと思っていましたが。おかげで、毎週のように外に出るようになって、気持ちも少し楽になってきたような気がします。
 鉄道仲間は他にも高校生や浪人生がいて、そういう人たちと接することで、世の中が広くなってきました。街を歩いていればホームレスの人もいます。不登校中だった私は、これは自分の将来の姿かもと考えることがありました。
 写真を撮るようになって、自分もいいカメラが欲しいなと思うようになり、例によって父親に買ってくれるよう頼み込み(相当な暴力も用いて)、クリスマスプレゼントとして14万8千円のニコンF801という一眼レフカメラを手に入れました。一応、買う時の約束として「学校に行く」とは言ってありましたが、もちろん守るつもりなど全くありませんでした。相変わらず冬休みも趣味の鉄道一色です。
 ところが、その6年生の他校生が、私の同級生の兄と友達で、その同級生というのは小学校時代から鉄道趣味で気の会う友達だったのです。おかげで、同級生と冬休みに一緒に遊びに行くことができました(偶然その1)。そして、その同級生と朝から電車を乗り回していたその日は昭和64年1月7日、昭和最後の日でした。昭和から平成へ、私の変化を象徴する時期でした(偶然その2)。

 さらに驚くべき事は、その6年生の他校生の母親と、私の学級担任が知り合いだったということ。これを知った時は担任の策略かと思いましたが、これも偶然だったのです(偶然その3)。
 平成元年2月2日、私の13歳の誕生日の前日、担任が家にやって来て、進級するために行動を起こすよう、私を説得しました。私も留年するのは嫌だったので、ここで全てのプライドを捨てて、学校に行くことを決心しました。成績が悪くても、カメラがある。鉄道がある。最悪でも、ホームレスとして生きて行けるし。そういった余裕ができていたんです。0点でもいいや。平成元年2月21日、学年末試験から学校に復帰します。もちろん、テストの結果はさんざんですが、もう気にしません。それからは、修了式までに3日ほど風邪で休みました。ある日、学校で具合が悪くなったので保健室に行こうと思ったら、保健室の先生がお休みで、職員室で休んでいました。その時、私の向かいに座っていた先生が一眼レフカメラの手入れをしていたので、声をかけたら、「写真部作ったら入るか?」といわれ、「あったら、入りたいです。」と答えました。
 中2になって、クラス替えもあり、気分一新、新しい友達もできました。担任の先生は社会科担当でしたが、高血圧でまもなく入院。副担任の理科の先生が担任になりました。なんと、その理科の先生とは、3月に職員室でお話をした先生で(偶然その4)、ここで一気に写真部創立へ傾きました。勉強も理科だけは頑張ろうと思って、参考書や問題集を自分で買い漁り、なんと1学期中間テストで90点を取りました。それから、違うクラスに好きな人がいて、その人は音楽(ピアノ)が得意だったので、自分も少しだけ真似しようと思い、音楽の参考書を買ってみたり、家で親がいない時に歌や笛の練習をして、おかげで「5」の成績をもらいました。技術は友達に負けたくなかった一心で「5」を獲得。諦めかけていた高校進学への期待が徐々に出てきました。


私の成績
  国語 社会 数学 理科 音楽 美術 体育 技術・家庭 英語
中学1年1学期
中学1年3学期
中学2年1学期
中学2年3学期
中学3年3学期

 

 

 

 

(6)不登校やって良かったの巻


 不登校をやったおかげで、変なプライドは吹っ切れたし、成績は元より良くなるしで、結果として良かったわけです。理科だけ頑張れたのは、担任の先生のおかげが大きいけれど、他の教科は0点でもいいという余裕があったからこそ、1教科に打ち込めたわけです。不登校前にはできなかったことなのです。かと言って、全くいい加減な人間になってしまったわけでもありませんで、宿題を忘れたりして学校に行きにくくなることは絶対に避けたいので、意地でも終わらせてから寝るようになりました。これも不登校経験による収穫かなと思います。理科で成功した後は、他の教科も同じようにやればできるんだと考えて、社会・数学・・・と上げていきました。英語は最後までひどく苦手でした。中1で基礎をやっていない後遺症です。
 そして、何よりも、不登校経験のおかげで新しい目標ができました。それは、不登校経験を生かして教師になるということ。不登校経験のある教師なんていたら珍しいだろうし、生徒の気持ちを経験者として理解できたら強いだろうなと思っていました。「東大、防衛大、エリート」といった借り物の目標ではなく、ようやく自分で目標を見出すことができたのは大きな収穫でした。親や親戚も私に大きな期待をすることはなくなりましたから、私が自由に自分の生き方を考えられる環境になったわけです。(山田洋次監督の映画「学校」よりも前に私は不登校経験者として教師を目指していた!現実はドラマよりも劇的である。)
 高校入試は公立、私立ともに合格できました。中学校3年間の欠席日数が170日を超えているのに、よく合格させてくれたなと思います。特に私立は年間10日を超えると厳しいと言われていたのに。両方受かったので、家からも近い公立高校を選びました。札幌啓成高校。不登校までやった私にとっては、とてもすばらしい高校だと思われましたが、世間一般の評価は高くありません。普通にやってれば入れる高校という認識だろうと思います。この高校で上位5%に入れば、国公立大も夢ではありません。入学直後の実力テストでは455人中411位という成績でしたが、1学期中間テストで学年5番まで上げて、その後も順調に伸ばしていきました。高2の段階で、中学時代に不得意だった英語と数学を克服し、逆に得意科目と呼べるまでになりました。これで一気に大学進学が見えてきました。
 しかし、時間が経つと不登校経験のことを忘れて、ひたすら教師になることしか考えなくなりました。これは非常にまずいことです。高3の段階で、勉強することの意味について悩むようになります。11月に推薦で筑波大を受けますが、心に迷いがあり不合格。一般入試で北大を受け、やっぱり不合格。正直、浪人してじっくり考えてみたいという気持ちが強かったです。教師になるのに、なぜこのような受験勉強が必要なのか。一応の答えが出たのは5月くらいでした。予備校の模試では、かなりいい成績だったのですが、受験勉強はほどほどにして、自分の勉強をしようと思い、大学に入ってから何をするかをずっと考えていました。そんな時、予備校の理科の先生に見かけた覚えのある人がいました。高校1年生の時に理科をお世話になった先生だったのです(またまた偶然!)。当時、その先生は北大の大学院生で、非常勤講師として札幌啓成高校にいらしていたのです。その先生も私のことを覚えていてくださり、不登校経験のことや勉強することの意味などお話しました。そして、心理学の本を紹介されたのです。
 そう、その本で読んだ内容が、私の今の研究テーマ、「動機づけ」なのです。人はなぜ学習するのか、あるいはしないのか。本当の学習意欲とはどういうものか。今の学校教育では偽物の動機づけが横行しているのではないか。そんな問題意識が、私の幼稚園時代の「東大・・・」、不登校経験を経て、高校から浪人時代に悩んでいた自分の生き方としっくり噛み合ったのです。そこで、教員養成系の教育学部で心理学を専攻できるところはないかと探した結果、全国で唯一、中学校教員養成課程で心理学科専攻課程のある教育学部が見つかったのです。さっそく、大学に手紙を出して、自分のやりたい研究ができるかどうかを尋ねました。そして1ヶ月かかってお返事が来ました。そのお返事を書いてくださったのが、私の今の助言教官です。入学定員3名でしたが、私にとってはたとえ駄目でもまた受けてやるという気持ちでした。結果として1回で受かりましたが。
 教師になるという目標は、大学に入ってから変わってしまい、今は教育心理学の研究者を目指しています。現在の教育心理学が、現場での実践をバックアップするまでに発展していないことを危惧したからです。特に動機づけ研究には大局的視点が欠けていました。こんな理論で実践されたら、生徒はたまらないだろうなと思うくらいです。最近は、多くの研究者が理論の見直しに取り組んでいて、私もその仲間入りをしようというところです。具体的な目標は変わっても、その根底にある精神は不登校経験を大切にするという点で一貫しています。