「えにしだが行く」(http://homepage2.nifty.com/enishida/) より転載
No.22 自己責任論は醜悪である (2004/04/19)

 
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 法治国家というものは、いかなる思想信条をもつ国民に対しても、救出し、援護する義務を負っている。たとえば、アメリカ軍が600人以上を虐殺しているファルージャに、自らの信念に基づいて、イラクの人々を支援するために赴いたジョー・ワイルディングさんという名の女性がいる。彼女の母国イギリスは、言うまでもなく、アメリカの同盟国として占領軍に参加し、アメリカ軍との協力体制にある。ジョー・ワイルディングさんは、もちろんイギリス政府の対イラク政策に反対し、政府の勧告にもかかわらず、ファルージャに入っていたが、日本の高遠さんたちと同じように人質として拘束されたのだった。しかし、彼女が自立した市民としてイギリス政府のやり方に反対しつつ、イラク人の支援のためにやってきたということが理解されるや、彼女は無事に解放された。彼女はイギリスに帰らず、自らの意志で、今も引き続きイラクの地で人道支援に携わっている。
 ところで、こうしたワイルディングさんの行動に対して、イギリス政府が非難したりしただろうか? 「迷惑なことをしながら、反省の色がない」などと罵っただろうか? いや、イギリス政府はそんな低劣な行為はしなかった。それが成熟した民主主義国家の当然の義務だからである。そして、政府の方針に反する市民が、自らの信念にもとづいて行動することを、政府は許容し、そうした自立した市民の勇気を、むしろ尊重するからである。そして、イギリス国民もまた、彼女のことを「世間に迷惑をかけたのに反省の色がない」とか、「彼女のために使った費用を弁済させよ」とか、「自分勝手に行ったのだから、死んでも仕方がない」とか、あたかもそれが一つの世論を形成するかのように言い募ったりはしていない。
 日常的に砲弾にさらされているファルージャの地で、死と隣り合わせの支援活動を行う彼女の決断に対して、それがたとえ政府の政策に反対する立場から行われているとしても、敬意を払うのが政治家の、あるいは政治家以前の人間の、品格というものである。
 ところが、日本の有力な政治家の一人である安部幹事長は、「反省してほしい。政府関係者が命の危険を冒してテロリストと接触したり、危険な場所で交渉しなければいけない可能性もあった。5人にそういう自覚があったか疑問だ」と発言している。危険な目に遭わされるのはイヤだ、という意味だろうか? この政治家には、世界の現実がかけらも見えていないらしい。一個の人間として勇気があるのは、この政治家を名乗る男か? 高遠さんたちの方ではないのか?

 これからもイラクで活動したいと述べた高遠さんの言葉を聞かされた小泉首相は、「あんな目に遭いながら、政府の人に迷惑をかけて、まだそんなことを言うものですかねえ」と、いかにも不愉快そうに感想を述べている。また、人も知るとおり、公明党の冬柴幹事長は、「損害賠償請求をするかどうかは別として、政府は事件への対応にかかった費用を国民に明らかにすべきだ」と発言している。
 迷惑? 損害賠償? どこからそういう発想が出てくるのか、これは性質の悪い冗談だろうかといぶかしく思われるほどである。彼らは政治家を名乗り、政権を担当する党に所属しているけれども、近代民主主義国家がその基本的要件として負っている国民援護義務の基礎も弁えていないのだ。なんのために費用を公表する必要があるのか? 費用を公表しようなどという発想は、どこから来るのか? どう考えてみても、そうした発言が可能であるためには、「政府に反対する連中のために、なぜ金を出さなくてはならないのか」という意識が前提されなくてはならないだろう。そこで、かかった費用を公表することで、「さあ、国民の皆さん、みんなであの生意気な連中とその家族を、バッシングしてください」とけしかけているわけである。完全なまでに不見識な、無責任極まる発言だと言わなくてはならない。

 かつて1982年、イギリスのサッチャー首相の息子がパリ・ダカールラリーで行方不明になるという事件が起こったとき、サッチャー首相は、ためらうことなくイギリス軍に捜索命令を出し、約一週間の間、自分の子息の救出作戦にあたらせた。子息が発見されたとき、与党からも野党からも、そして国民からも、救出にかかった費用を弁済せよ、などという要求が出されることはなかった。なぜなら、国家は、国民に対して無条件に救出の義務を負うからである。
 だが、なぜ日本政府の要人たちは、「迷惑をかけたのに反省がない」とか、「費用を一部自己負担させるべきだ」などと言うのか? 国家の基本的な義務についてあまりに無知なのだろうか? もちろんそうでもあろう。だが、最大の理由は、人質になった彼らが、もともと自衛隊派遣に反対する立場を表明している人たちだったからにほかなるまい。
 「俺たちの政策に反対している連中を、なぜ苦労して助けなくてはならないのか」という底意が、見え見えである。それが政府関係者の本音なのだ。なんと品格に欠けた、狭量な人たちだろうか。それが子供じみた嫌がらせと同じだということが、彼らには分からないのだ。もちろん、彼らは、彼らがしたことが、実のところは、かえって人質になっていた方たちを危険にさらす振る舞いであったということに気づこうとしない。
 イラク人を攻撃している当事国の政権内部にいる政治家、自衛隊派遣を歓迎する立場にあるパウエル氏でさえ、「危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを日本人は誇りに思うべきだ。もし人質になったとしても、『危険をおかしてしまったあなたがたの過ちだ』などと言うべきではない」と言っている。彼と我、この落差に日本の政治家はあまりにも無感覚らしい。

 そして今や、愚かな政治家たちに誘導されたのか、傷つけられたイラクの人々に連帯の意志をもち、自らの発意で支援に出かけた人たちに、次のような言葉を投げかけるのが、この国の流行になっている。

 「自分の責任で行ったのだから、死んでも文句は言えない」
 「世間に迷惑をかけたのだから、偉そうなことを言わず、黙ってろ」
 「他人様に尻ぬぐいさせるようなことをして、恥を知れ」
 「かかった費用は彼らとその家族に負担させよ」

 こうしたセリフを投げつける人たちは、どこにいるのか。どのような場から、「自業自得だ」などと言うのか。人々は、たとえばビールを飲みながら、ソファに寝転がり、テレビの画像を眺めつつ、「人騒がせな連中だ」と文句をつけているのか? このように言う人たちは、何に価値をおいているのか? 「危険だと分かっている場所に出かけたのは自分の責任だ」と嘯くことが、どんなに「無責任」な態度であるか、気づかないのか?
 もちろん、ソファに寝転がることは何も悪いことではない。ソファがあるのにわざわざ床に正座するような「苦行」には、なんの益もないだろう。だが、ソファに寝転がっているとき、私たちは常に、今自分がソファの上にいるという、まさにそのことによって、はたして視野が局限されていないかどうか、時折は振り返ってみたいものだ。

 自衛隊が派遣されるずっと以前から、高遠菜穂子さんは、戦争のために両親を失ってしまったストリートチルドレンを支援し続けていた。イラクの子どもたちは、高遠さんを「マザー」と呼び、いつも彼女の写真を持ち歩いている。彼女に抱きしめられると、父も母も亡くした子どもたちは、ほんとうにうれしそうに笑っている。両親を殺され、うちのめされているというのに、なぜ子どもたちは笑うのか。遠く東アジアからやってきたナホコという名の女性に、抱きしめられたからなのだ。
 彼女の活動は、しかし、ある時点から危険な、困難なものになった。自衛隊が、アメリカを中心とする占領軍に協力するために派遣されたからである。当初から、自衛隊派遣によって、NGOなどの民間の支援が危険に陥れられるということが分かり切っていた。そのために、ナホコに会いたがっているイラクの子どもたちを、高遠さんは見捨てなくてはならないのだろうか? 自分の命を惜しんでか?

 だというのに、「民間の支援者や団体が危険にさらされるようになったのは、政府の責任ではない」と言ってのけ、むしろ逆に、「民間人の支援活動が、政府に迷惑をかけている」というのが、「自己責任論」を口にする日本人たちの考え方である。さもあろう、与党の幹事長が、「あいつらのせいで、われわれ政府関係者まで危険な目に遭うところだった」などと言うような国なのだ。なんという偏った、貧しい心だろうか。このような考えには、現実にイラクで起こっている出来事を直視しようとする意志が欠如している。イラクに存在する人々を、具体的な表情をもった生身の人間として見る眼差しが遮断されている。そして死と抑圧についての感受性と想像力が、驚くほど貧困である。
 この日本人たちは、何に価値をおいているのか? イラクで何が起こっていようが、政府のやることに誰も文句を言うな、ということだろうか? 政府がイラクの復興を支援するといっているのだから、まかせておけばよい、ということだろうか? たとえ政府の決定が、イラクの復興支援にとってほとんど無意味であり、むしろ戦争の後方支援のためにこそ赴いているということが明らかな場合でも? いや、彼らはそもそも、そういう明らかな事実を見たくもないのかもしれない。それというのも、面倒なことは考えたくないからだ。
 それに比して、自らの危険を顧みず、イラクの地に行かざるを得なかった高遠さんたちは、皮肉なことにパウエル国務長官の言うとおり、勇気ある市民として、日本人の誇りではないか。むろん、「日本人の誇り」など、後から結果としてついてくるものであって、最初から目的として掲げるべきものではない。
 どんなに危険でも、イラクには、高遠さんのことを「マザー」と呼ぶ子どもたちがいる。自衛隊が来る以前から、育まれてきた強い絆があるからだ。この子たちのために、高遠さんは、危険を顧みず、いや、危険であるがゆえにこそ、支援のために赴いたのだ。
 それが自立した市民の勇気だと認め、日本人の誇りだと思うどころか、テレビの画像を眺めながら、「自業自得だ」「死んでも文句は言えまい」「金を弁済させろ」と言う人たちがいる。「世間様を騒がせた迷惑な連中だ」と言う人たちがいる。恐ろしいことである。こうした態度は、ありていに言えば、自立した「市民」としての自己存在を、自分で扼殺することに等しいからだ。「自己責任」ということをうれしげに担ぎ回る言動は、かくも無責任であり、かくも醜い。それが、どんなに危険なことか、巡りめぐって、大きな代償として私たち自身に降りかかってくる無責任な態度だということに気づかなくてはならない。
 このような危険な風潮に、私たちは、どんなちっぽけな機会であっても、それが「ちっぽけだから」という理由でやり過ごしたりせず、声をあげようではないか。